近頃、「身体性」というものが世の中で話題になっているのか?それとも、ただ単に私のアンテナが「身体性」に向かっているだけなのか?内田樹と岡田斗司夫による対談内容を収めたこの書もさまざまなテーマが出てはきますが、結局のところ「身体性」をめぐる議論が中心にあるように思えました。「イワシ化する社会」に関する議論の中で内田はこう語ります。
こういう現象を見てると、みんな身体性を取り戻したいと思っているんだなってわかる。「イワシ化する社会」っていうのは「脳化する社会」というのとおなじことだと思うんですよ。みんなが頭で考えて、脳だけで判断するから、その選択が自分の生きる力を高めるか、生き延びる可能性を高めるかということを吟味しないで、ふらふらマジョリティについてゆく。(p44)
先日NHKでやっていた宮田章夫が80年代について語る番組で、宮田が80年代を語るキーワードのひとつとして「非身体」というものをあげていて、当時は多くのミュージシャンやアーティストが身体性を超えるということに新しい表現の可能性を求めたと語っていました(と私は受け取った)。そんな話を引き合いに出さなくても、サービス業を含む第3次産業の就業者人口が全体の7割を超えた現在、日本の社会は、かなり「非身体化」つまり「脳化」してきていると感じます。
なぜ(日本の)社会は「脳化」してきているのか?内田はこういいます。
強弱勝敗巧拙をランキングとか比率とか数値で考えている人って、端的に言えば、「生きる力」なんか別に高くなくても構わないと思っている。生きる力なんかたいしてなくても、医療とか、防災とか、生きるうえでの安全は保証されている。そういう社会でしか、身体能力を数値的に計測する習慣は出てこないです。(p43)
高度に近代化された日本の社会では、それなりに生きるのに困らない環境がある程度保証されているから、身体の存在を遠くに追いやることがまがいなりにもできている、つまり、身体を忘れることができているのです。しかし、一時的に忘れることができても、身体は「在る」。「非身体」などというものは幻想にすぎない。当然、歪みが現れる。
外形を一瞥して、数値的に評価して終わり。そのスピードだけが求められる社会になった…(中略)…この人には「何か」があると思っても、「エビデンスを示せ」と言われる。…(中略)…競争社会では、人間はそういうふうに「誰が見てもすぐに優劣がわかる能力」を基準に格付けされる。でも、人間の能力の九十%は「外見からだけではわからない」ものなんです。(p220)
内田はそれを「生物としての強さ」と呼んでいます。具体的には「何でも食べられる」「どこでも寝られる」「誰とでも友達になれる」、そういう能力のことを指しています。そして、これら「身体性」に基づいた能力に再びスポットがあたりはじめます。では、どうすれば「身体性」を取り戻すことができるのか?内田いわく、それには「雑巾がけ」がいいらしい。
身体性を取り戻すには単純で原始的なことに取り組むしかないから。…(中略)…とにかく掃除をさせる。廊下の雑巾がけ、トイレ掃除、庭掃除。有無を言わさず掃除させる。身体を動かす。そして、掃除の無意味性の前に愕然とする、と。…(中略)…だって、掃除してもすぐまた汚れるから。一時だけなんですよ、きれいなのは。掃除した次の瞬間から汚れはじめていく。世界に無秩序が乱入してくるのを必死に防ぐんだけども、押し戻したはずの無秩序はすぐ戻って来る。人間の生きる世界で、人間的な秩序を保つというのはエンドレスの作業なんだけど、お掃除してると、その宇宙の真理に目覚めるわけ。(p127-p128)
内田が語る「宇宙の真理」とは何か?少し長いですが引用しておきます。
われわれがいま当然のように生きている文明的な空間って、誰かが必死になって無秩序を世界の外に押し戻す仕事をしてくれたおかげで、ようやく確保されているものなんだから。…(中略)…当たり前に見えることが実は無数の人間的努力の総和なんだということを思い知るって、ほんとうに大切なんですよ。…(中略)掃除やってると、人間の営みの根源的な無意味性に気がつくんですよ。『シジフォスの神話』とおなじで、掃除って、やってもやっても終わらない。せっかくきれいにしても、たちまち汚れてしまう。創り上げたものが、たちまち灰燼に帰す。…(中略)…そのとき初めて、意味がないように見えるもののなかに意味がある、はかなく移ろいやすいもののうちに命の本質が宿っているということがわかる。(p128-p129)
「無数の人間的努力の総和」の上にいまのわたしたちの便利があり、安全があり、豊かさがある。そのことに思いを馳せるということは、すでにたくさんのパス(=贈り物)を受け取っているという自分の立ち位置に気づくということなのでしょう。ここから内田の贈与論が展開されます。
人のお世話にをするというのは、かつて自分が贈与された贈り物を時間差をもってお返しすることなんですから。反対給付義務の履行なんですよ。…(中略)自分が経済活動の始点であるわけじゃないんです。もう何万年も前からはじまっている贈与と反対給付の長いサイクルのひとつの小さな鎖にすぎないわけですから。(p148)
「贈与と反対給付」の長いサイクルはもう何万年も前から始まっている。私たちはその「無数の人間的努力の総和」の連鎖の中の小さな小さなひとつの鎖にすぎない。そこに思い至ることができれば、謙虚さと相手への敬意が自然と生まれてくるはずです。その謙虚さと相手への敬意の連鎖がつくる共同体こそがこれからの世の中のスタンダードになるのだとこの書は説いているし、そうなってもらいたいと希求している、そのように感じられました。