【読感】『インターネットについて—哲学的考察』 / ヒューバート・ドレイファス

写真 2013-12-14 22 19 39

いま起こっているインターネットを中心とした世の中の大きなバーチャルネットワークのうねりのようなものを根本的に理解するには、そもそもインターネットとは何か?ということについて把握しておかなければ、木を見て森を見ずということになってしまいかねない。そう感じて、何かよい手引きはないかと手に取ったのが、本書『インターネットについて—哲学的考察』です。哲学者である著者ヒューバート・ドレイファスが本書で取り上げているのは、主にインターネットと身体についてでした。

私が以下で示そうと思うのは、もし身体が失われるならば、関連性、技能、リアリティ、意味もまた同時に失われるということなのである。(p9)

本書は、大きく4つの章立てからなります。第一章では、世界認識における身体の重要性について論じながら、ハイパーリンクの限界を示していきます。続く第二章では、技能取得における当事者性の意味について触れながら、eラーニングのような遠隔学習での技能修得の不可能性を示していきます。そして、第三章では、テレプレゼンス(遠隔現前)に欠如しているものについて論がなされ、最後、第四章において、インターネットという仮想空間におけるコミットメントの匿名性と安全性が意味を欠いた生活を招くことを主張します。

まず、興味を覚えたのは、本書の主たるテーマである「人間は、身体と関心があって初めて、関連する変化に反応することができる」(p24)ということでした。オンラインネットワークの中で「何かのデータを使おうとする人は、現在の自分の関心にとって意味があり、関連する情報を探さなければ」なりません。つまり、脱身体化を促す仮想空間において前提とされているのは、自らの身体とそれに基づく関心なわけです。だから、例えば、ソースのはっきりとしない匿名性の高い情報によって成り立っているウィキペディアのようなメディアは、自身の関心がはっきりとわかっていて、そこに掲載されている情報の信頼性をしっかりとチェックできる、ストックの持ち主でなければ使いこなせないのです。ということは、インターネットに溺れることなく、使いこなしたいと考えるなら、結局自身の身体と関心に目を向けることからはじめなければならないのです。

だからかどうなのかはわかりませんが、ドレイファスは第二章で学習というテーマに向かいます。最初に提示されるのは「学習は本当に対面的な参加を必要とするのだろうか。」(p44)という問い。これに対する彼の回答は、もちろんイエスです。

もしわれわれが身体を欠いた存在者であって、乱雑な感情から自由で純粋な精神であるとすれば、成功と失敗に対するわれわれの反応は真剣さと興奮を欠くものとなるであろう。(p51)

人間は、ある情報に触れた時、その情報をそのまま受け取っているのではなく、同時に何らかの価値判断を済ませてしまっています。そのことによって、ある客観的な情報と自分自身との間に距離が生まれ、ある情報に向かう態度と関心が形成されるわけですが、その情報との最適な距離を見いだす力を身につけるために欠かせないのが身体なのだとドレイファスは言います。

画廊のそれぞれの絵にとってそうであるように、他のあらゆる対象にとっても、それを見るのに最適な距離というものがあるのだ・・・。それよりも手前でもそれよりも遠くても、われわれは過剰もしくは不足によって混乱した知覚しか持つことができない。そこで、われわれは最大限の可能性を目指すし、また顕微鏡をのぞく場合のように、焦点をより一層合わせようと努めるのである。メルロ=ポンティによれば、身体こそが、この最適性を求めるものなのである。(p75)

そして、身体を有することで、ある情報に対して触れると同時にとられる根源的な態度について以下のように論じます。

身体を有したわれわれは、何らかの特殊な事物に対処しようとする構えの他に、事物一般に対処しようとするある恒常的な構えを経験している。メルロ=ポンティはこの身体化された構えを、現実世界に対する根源的憶見(Urdoxa)もしくは「原初的信念」と呼んでいる。それこそが、事物が直接現前しているという感覚を与えてくれるものなのである。…文脈のこの理解こそが、やってくるものを何でも摑み取ろうとする恒常的な構えを促すものだからである。(p76)

しかし、インターネットという仮想空間においては、「距離に関する何かが、直接的なプレゼンスの感覚を弱めてい」(p73)て、彼はそこにテレプレゼンスの限界をみるのです。

二人の人間が面と向かって話すときには、目の動きや頭の振り方、ジェスチャー、姿勢の微妙な組み合わせに依存しているのであり、ほとんどのロボット工学者たちが理解しているのよりもはるかに豊かな方法で相互作用していると指摘する。…身体的な相互作用の全体的な感覚が日常的な人間の出会いにとって決定的に重要だろう…(中略)…どれほど伝送条件が良くても、視覚チャンネルを通してアイコンタクトを行うことは不可能である。テレプレゼンスに欠けているのは、世界をより良く把握するために、自分の身体の動きをコントロールする可能性なのである。(p80)

本書を読み進めていくと、テレプレゼンスの限界について、より端的に示されている箇所が現れます。

遠方のインターンがもし何かを取り逃すとしたらそれは何だろうか?文脈の中への没入が再びその答えである。(p85)

一般事象に抽象化しえないある特殊な状況において変化し続けるコンテキストをつかみとるためには、その文脈自体へ没入するしかないのです。ところが、インターネットという仮想空間では、その特殊な状況に身を置くことがないため、文脈へ没入する契機がそもそも存在しません。リスクをとらなくてよい反面、コミットメントがないため、オンライン上での学習では、学習自体に身が入らないわけです。

ここから、近代の「公共領域」の話を経て、インターネットの匿名性がもたらすものに関する議論へと進んでいきます。

近代の公共領域は自らを政治権力の外部にあるものとして理解していたのである。…(中略)…公共領域は何らかのコミットメントを持った具体的なグループとは異なり、そもそも最初から水平化の源泉だからである。…そこでは、誰もが公共的な事柄に意見を持ち論評するのだが、いかなる直接的な経験も必要とはされないし、またいかなる責任も求められないのである。…(中略)…公共領域は自分を局地的な実践から引き抜いて思案する、偏在するコメンテーターたちを育成することになる。この局地的な実践からこそ特殊な問題が生い立ち、その観点からこそ、何らかの種類のコミットメントを持った行為によって問題が解決されなければならないのにも関わらずである。(p102)

キルケゴールが当時批判したのは「公共領域」である新聞に対してでしたが、新聞よりも拡散性の強いメディアであるインターネットの出現に至って、コミットメントの不在は加速度的に広がっていきます。

インターネットは、世界中から集められた匿名情報満載のウェブサイトと、どんなトピックについても無限に何の結論も出すことなく討議できる関心グループから成っている。(p104)

脱身体化するインターネット上の仮想空間では、「意味のあるものを無意味なものから区別し、重要なものを重要でないものから区別する方法もなく、あらゆるものは同等に興味深く、そして同等に退屈であることになり、人は自分が現代の無差別の中に取り残されていることに気づくことになる」(p110)のです。他の誰とも交換することのできないリスクを負い、自分が置かれた特殊な状況の中で果たすべきコミットメントを、インターネット空間では持つことができないのです。

もし人が完全に自由であるならば、自分の人生の目標を選択したとしても、それは何ら深刻な差異をもたらさないことになろう。というのも、その場合、自分の以前の選択を撤回することを、常に選択できることになるからである。もし私が常にコミットメントを自由に取り消すことができるとすれば、コミットメントは、私を捕まえておくことはできなくなる。実際、自由に選択されたコミットメントは新たな情報がやってくる度に刻一刻と改訂され得るし、また改訂されなければならないのである。それゆえに、倫理的なものは絶望のうちに崩壊する。(p113)

ドレイファスは最後にインターネットの特性を一言でこう言いました。

シミュレーター一般がそうだるように、ネットはあらゆるものを捉えることができるが、しかしリスクだけは捉えることができない。(p116)

本書では、インターネット空間がもたらす負の側面が強調されています。が、本人も前置く通り、決してインターネットの可能性を否定するものではありません。ただ、熟慮せぬままに、礼賛することに対して警告を発しているだけなのです。インターネットの増殖に対しての一つの態度を示して本書は締めくくられています。

一つ明らかなことは、われわれはウェブの驚嘆すべき可能性を利用しながら、同時にまたある共生を育成する必要があるということである。(p124)

近頃よく見かけるようになった、「シェアハウス」などの現象もドレイファスの言う共生の育成がかたちになって現れたものなのでしょうか。ネット時代のリアルの結びつきについて考えさせられる結びでした。

【読感】『新ネットワーク思考 〜世界のしくみを読み解く』 / アルバート=ラズロ・バラバシ

写真 2013-11-30 15 49 57

言語の背景にあるネットワーク、細胞内のタンパク質同士をつなぐリンク、人間の性的関係、コンピュータ・チップの配線図、細胞の代謝、インターネット、ハリウッド、ワールド・ワイド・ウェブ、共著関係でリンクされる科学者のウェブ、経済の背後にある複雑な協力関係のウェブ——これらはほんの一部の例にすぎない。このようなネットワークがどれもみな同じ法則によって記述されるのである。(p313)

特に関連性が見いだせないこれらの事例。これらはいったいどんな共通の法則を持っているのか?その答えを求めるのなら、「ネットワークを考えなければならい」と著者であるアルバート=ラズロ・バラバシは言います。

話は、プロイセン東部にある花咲き誇る美しい町ケーニヒスベルクにかかる橋から始まります。町に架かる七つの橋をそれぞれ一度だけ通って、すべての橋を通ることは可能か?オイラーは「そんな通り方はない」ことを証明しました。このエピソードで重要なのは、彼が、町の陸地をノードとして、橋をリンクとして、単純化してその構造を捉えたところにあります。なぜなら、「グラフやネットワークの構造は、この世界を解く鍵」だからです。

オイラーによって生み出されたグラフ理論。そこから、エルデシュ・レーニィのランダム・ネットワーク理論につながっていきます。この理論によれば、どのノードも近似的に同程度のリンク数をもつことになります。しかし、現実のネットワークは本当にそのような仕組みを持っているのでしょうか?

現実のネットワークの事例としてあげられた航空便のルートマップでは、少数のハブ空港が何百という小さな空港とリンクされています。つまり、「どのノードも近似的に同程度のリンク数」をもっていない。この現象をランダム・ネットワーク理論はうまく説明してくれません。ここで登場するのがハブという概念です。

現実のネットワークのほとんどは、わずかなリンクしかもたない大多数のノードと、莫大なリンクをもつ一握りのハブが共存しているという特徴を持っている。これを数式で表したのがベキ法則なのだ。…希少な存在であるハブが、ネットワークをひとつにまとめているのである。(p102)

そして、この“ベキ法則”に従うネットワークこそがこの書のキー概念である“スケールフリー・ネットワーク”なのです。このネットワークのアルゴリズムの主な特徴は二つが“成長”と“優先的選択”です。

A 成長 与えられた期間ごとに新しいノードを一つずつネットワークに付け加えてゆく。この手続きは、ネットワークは一度に一つだけノードを増やすという点を強調するものである。

B 優先的選択 新しいノードは既存のノードと二つのリンクで結ばれるものと仮定する。あるノードが選択される確率は、そのノードがすでに獲得しているリンク数に比例する。二つのノードから一つを選ぶ場合であれば、一方が他方より二倍多いリンクをもつなら、そのノードが選ばれる可能性は他方の二倍になる。

AとBを繰り返すたびに、ネットワークに新しいノードが一つ付け加わり、ウェブはノード一つ分だけ大きくなる。成長と優先的選択を取り入れたモデルは、ハブの存在を説明することに初めて成功した。…このモデルは、スケールフリーのベキ法則を説明することに成功した最初のモデルとして、“スケールフリー・モデル”の名で知られるようになった。

ランダム・ネットワークは静的なグラフでモデル化されていたが、スケールフリー・モデルの登場は、現実のネットワークがダイナミックな系であり、ノードやリンクが新たに付け加わることでたえず変化している様相を示しています。その後、新参者がどうやって成功に至るのかを説明する“適応度モデル”やマイクロソフトのOS市場での圧倒的シェアの理由を説明する“ボーズ・アインシュタイン凝縮”などによって、さらに発展をとげます。

全ノードの80%に何らかの故障が生じても、残りの20%のノードが緊密な相互連結性をみせるくらい、エラーへの耐性が強い、つまり、頑健であるスケールフリー・ネットワークですが、根本的な弱さを抱えていることもわかっています。それは、攻撃に対する脆弱性です。故障は多くの場合、小さなノードで起こります。ですが、このネットワークで重要な役割を担っているハブに集中的にダメージを受けた場合、あっという間にネットワーク全体に支障をきたしてしまうのです。

アルバート=ラズロ・バラバシは、将来的には「地球という惑星の皮膚であるセンサーは、環境もハイウェイも人間の身体も、ありとあらゆるものを監視するようになるだろう。…惑星地球は、相互連結された何十億ものプロセッサーやセンサーからなる、巨大なひとつのコンピュータに進化しようとしているのである。」(p229)と予測します。地球はどんどん「小さな世界」へと縮まっていく。そうなれば、ますますこの「攻撃への脆弱性」というこのネットワークのアキレス腱への懸念を無視できなくなってきます。相互連結が強まる流れは変えられません。いかに相互連結された世界に柔軟性を持たせることができるかが重要になってくるのでしょう。

そして、話は、インターネットや人間の細胞にまでおよび、“スケールフリー・モデル”の射程の広さが明らかにされていきます。第十四章では、このネットワークモデルをベースにした経済への考察が入ってきます。ソーシャルネットワークが隆盛をみせる現在において重要だと思われたのは、「グローバルな経済においては、自分だけ故障して他には影響を及ぼさないような組織などひとつもない。」(p301)だから、「自社の直接的損得だけしか考えない自己中心的なスタンスでは、ネットワーク思考はできない」ということでした。競争関係と捉えられた相手もパートナーとして認識しなければならなくなってくる。自社だけでなく、競争相手、お客様、パートナーなどなど、ありとあらゆるステークホルダーと相互連結し、一つのやわらかいエコシステムを形成し、いかにそれを発展させていくことができるか。そのことが組織の発展のカギを握る。そんな気がします。

【読感】『評価と贈与の経済学』 / 内田樹 岡田斗司夫

写真 2013-11-24 18 05 00

近頃、「身体性」というものが世の中で話題になっているのか?それとも、ただ単に私のアンテナが「身体性」に向かっているだけなのか?内田樹と岡田斗司夫による対談内容を収めたこの書もさまざまなテーマが出てはきますが、結局のところ「身体性」をめぐる議論が中心にあるように思えました。「イワシ化する社会」に関する議論の中で内田はこう語ります。

こういう現象を見てると、みんな身体性を取り戻したいと思っているんだなってわかる。「イワシ化する社会」っていうのは「脳化する社会」というのとおなじことだと思うんですよ。みんなが頭で考えて、脳だけで判断するから、その選択が自分の生きる力を高めるか、生き延びる可能性を高めるかということを吟味しないで、ふらふらマジョリティについてゆく。(p44)

先日NHKでやっていた宮田章夫が80年代について語る番組で、宮田が80年代を語るキーワードのひとつとして「非身体」というものをあげていて、当時は多くのミュージシャンやアーティストが身体性を超えるということに新しい表現の可能性を求めたと語っていました(と私は受け取った)。そんな話を引き合いに出さなくても、サービス業を含む第3次産業の就業者人口が全体の7割を超えた現在、日本の社会は、かなり「非身体化」つまり「脳化」してきていると感じます。

なぜ(日本の)社会は「脳化」してきているのか?内田はこういいます。

強弱勝敗巧拙をランキングとか比率とか数値で考えている人って、端的に言えば、「生きる力」なんか別に高くなくても構わないと思っている。生きる力なんかたいしてなくても、医療とか、防災とか、生きるうえでの安全は保証されている。そういう社会でしか、身体能力を数値的に計測する習慣は出てこないです。(p43)

高度に近代化された日本の社会では、それなりに生きるのに困らない環境がある程度保証されているから、身体の存在を遠くに追いやることがまがいなりにもできている、つまり、身体を忘れることができているのです。しかし、一時的に忘れることができても、身体は「在る」。「非身体」などというものは幻想にすぎない。当然、歪みが現れる。

外形を一瞥して、数値的に評価して終わり。そのスピードだけが求められる社会になった…(中略)…この人には「何か」があると思っても、「エビデンスを示せ」と言われる。…(中略)…競争社会では、人間はそういうふうに「誰が見てもすぐに優劣がわかる能力」を基準に格付けされる。でも、人間の能力の九十%は「外見からだけではわからない」ものなんです。(p220)

内田はそれを「生物としての強さ」と呼んでいます。具体的には「何でも食べられる」「どこでも寝られる」「誰とでも友達になれる」、そういう能力のことを指しています。そして、これら「身体性」に基づいた能力に再びスポットがあたりはじめます。では、どうすれば「身体性」を取り戻すことができるのか?内田いわく、それには「雑巾がけ」がいいらしい。

身体性を取り戻すには単純で原始的なことに取り組むしかないから。…(中略)…とにかく掃除をさせる。廊下の雑巾がけ、トイレ掃除、庭掃除。有無を言わさず掃除させる。身体を動かす。そして、掃除の無意味性の前に愕然とする、と。…(中略)…だって、掃除してもすぐまた汚れるから。一時だけなんですよ、きれいなのは。掃除した次の瞬間から汚れはじめていく。世界に無秩序が乱入してくるのを必死に防ぐんだけども、押し戻したはずの無秩序はすぐ戻って来る。人間の生きる世界で、人間的な秩序を保つというのはエンドレスの作業なんだけど、お掃除してると、その宇宙の真理に目覚めるわけ。(p127-p128)

内田が語る「宇宙の真理」とは何か?少し長いですが引用しておきます。

われわれがいま当然のように生きている文明的な空間って、誰かが必死になって無秩序を世界の外に押し戻す仕事をしてくれたおかげで、ようやく確保されているものなんだから。…(中略)…当たり前に見えることが実は無数の人間的努力の総和なんだということを思い知るって、ほんとうに大切なんですよ。…(中略)掃除やってると、人間の営みの根源的な無意味性に気がつくんですよ。『シジフォスの神話』とおなじで、掃除って、やってもやっても終わらない。せっかくきれいにしても、たちまち汚れてしまう。創り上げたものが、たちまち灰燼に帰す。…(中略)…そのとき初めて、意味がないように見えるもののなかに意味がある、はかなく移ろいやすいもののうちに命の本質が宿っているということがわかる。(p128-p129)

「無数の人間的努力の総和」の上にいまのわたしたちの便利があり、安全があり、豊かさがある。そのことに思いを馳せるということは、すでにたくさんのパス(=贈り物)を受け取っているという自分の立ち位置に気づくということなのでしょう。ここから内田の贈与論が展開されます。

人のお世話にをするというのは、かつて自分が贈与された贈り物を時間差をもってお返しすることなんですから。反対給付義務の履行なんですよ。…(中略)自分が経済活動の始点であるわけじゃないんです。もう何万年も前からはじまっている贈与と反対給付の長いサイクルのひとつの小さな鎖にすぎないわけですから。(p148)

「贈与と反対給付」の長いサイクルはもう何万年も前から始まっている。私たちはその「無数の人間的努力の総和」の連鎖の中の小さな小さなひとつの鎖にすぎない。そこに思い至ることができれば、謙虚さと相手への敬意が自然と生まれてくるはずです。その謙虚さと相手への敬意の連鎖がつくる共同体こそがこれからの世の中のスタンダードになるのだとこの書は説いているし、そうなってもらいたいと希求している、そのように感じられました。

NHK Eテレ「80年代の逆襲 宮沢章夫の戦後ニッポンカルチャー論」を観て

936-pc-main1

「なんだ、自分がベースを弾かなくてもいいんだ。じゃあ、自分に何ができるんだろう?」

NHK Eテレ「80年代の逆襲 宮沢章夫の戦後ニッポンカルチャー論」の中で、YMOの細野晴臣が語ったその一言がやけに印象的でした。

自分が楽器を弾かなくても、出したい音を機械に打ち込めば、あとは機械が勝手に演奏してくれる。そんなことが可能になった時代がやってきて、じゃあ人間である自分にしかできないことは何なんだろう?そんなものは果たして存在するのだろうか?

ミュージシャンとしてのアイデンティティが一度崩壊した、と細野は言いました。

身体性の象徴のような製造業の就業者人口が初めてサービス業に抜かれた80年代。「テクノポップ」の隆盛、PCの普及、「情報化」の波。身体性(例えば、この身体でベースを弾くということ)の否定が細野の中でアイデンティティを崩壊させ、新しいコンセプトを紡ぎださせた。「非身体」という宮沢が出した一つのキーワードが、まさに時代の推進力になっていった。

一度はアイデンティティを否定された人々が、新しい時代の幕開けを感じ、これまでにない表現が可能になるのではないかと希望を見いだした。そして、「非身体」というモチーフが持つまばゆいばかりの閃光にみせられて、みながこぞって表現欲求をかき立てられてられていったのではないか。番組を通じて、80年代という時代がもつ、身体の有限性を超え出たいというエネルギーの強さを感じました。

さて、スマートフォンが生まれ、ますます脳が外化する傾向が顕著になってきた現在(いま)、「非身体」というキーワードは、拡張されていくのか、それとも揺り戻しがくるのか。そんなことに思いを巡らせてしまう、刺激的な番組でした。

mt博で感じた「命がけの跳躍」

image

先日、妻に連れられて「mt博」というイベントに行ってきました。

「mt」とは、岡山県に本社をもつ、カモ井加工紙株式会社が手がけるオシャレ雑貨感覚のマスキングテープブランドのこと。イベントは、オシャレ雑貨が好きな女性で溢れかえっていました。

そんな中、私の目をひいたのは、色とりどりのマスキングテープではなく、会場入り口で紹介されていた会社の沿革でした。それによると、この会社、そもそもはハエ取り紙を作るメーカーなのだとか。そして、その粘着技術を活かして、マスキングテープの製造に乗り出し、業界でシェアNo.1を獲得。

そこまでの道のりはよくわかります。けれど、なぜこんなオシャレでかわいいマスキングテープが、ハエ取り紙の会社から生まれたのか?そこに大きな飛躍があるように感じられました。実際、イベント会場にいたスタッフ(おそらく社員)をみても、正直オシャレというよりかは、朴訥としたまじめそうな方ばかりでした。

そんなことを思いながら、沿革に関する文章を読み進めると、こう書いてありました。「2006年、マスキングテープをこよなく愛する3人の女性からの問い合わせがきっかけで、『mt』ブランドが誕生」と。

建築現場用の資材であるマスキングテープが、カラフルでかわいい、かつ、剥がしやすいということで、彼女らは、写真を飾るのに使ったり、日記のアクセントに使ったりしていたのだそうです。そこで、「もっとおしゃれなマスキングテープがほしい」とカモ井に問い合わせた、ということらしい。

潜在ニーズを見逃さなかったようにみえますが、実際にはニーズの種が潜在的にあったのではなく、作ってみたら、欲しくなった人が結構いたということなんでしょう。これはまさに「命がけの跳躍」(石井淳造)だと思います。

この事業を立ち上げれば、うまくいくなんてものは存在しない。常に、事業が軌道にのった後、振り返ってみれば、成功への1本の道ができているように見えるだけ。成功の分析は、いつも結果論でしかない。カモ井の経営者も不安だらけの中で、でも何か新しいものにチャレンジしないと先がないといったある意味切迫した何かを抱えながら、「mt」をやろうと決断したのではないか。

すごくオシャレなイベント会場をまわりながら、オシャレ雑貨としてのマスキングテープという事業を立ち上げたカモ井の「命がけの跳躍」が花開いたという事実に少しジーンときてしまった。そんなことに思いを巡らせていたのは会場で私だけだったことでしょうけど。